誇るのなら、主を誇る
自分がクリスチャンだと人にいうのが、はばかられることがある。
それは、日本では、クリスチャンは少数派だし、
なんか変な目で見られないかなという怖れから、
クリスチャンだといいづらいというのもある。
でも、一番の理由は、次の点にある。
日本では、クリスチャンは1%くらいだろう。
だから、あんまりクリスチャンにあったことがる人は少ないだろう。
そんななか、俺がクリスチャンだというと、
俺を基準にして、クリスチャンとは、どんな人なのかを考えてしまうかもしれない。
俺がクリスチャンだと知った人は、
「クリスチャンっていっても、大したことないな」とか
「クリスチャンっていっても、なんか敬虔さが全くないな」とか
思うだろう。
そう、俺は、いわゆる「駄目クリ」、「駄目クリスチャン」なわけだ。
そんな俺を、クリスチャンの代表選手みたいな目で見られるのが、いやで、
自分がクリスチャンだと他人にいうのが、ちょっと、いやなのだ。
俺の通っている教会の中でも、敬虔なクリスチャン、立派なクリスチャンの方は、
結構、いらっしゃる。そういう人をみてほしいわけだ。
でも、逆にいうと、
敬虔さとは無縁の、かなりの現実主義者で、情欲だらけで、ちゃらんぽらんで、言い訳好きな俺をも、
主なるイエス様は、自らの命をもって、罪の中から引き上げ、救い出してくださったんだ!
と思うと、ほんとに神さまの恵みは、素晴らしいと思う。
だから、かえって、俺のような、ちゃらんぽらんな者が、神さまによって救われたってことも、意味があるのだろう。むしろ、「本来はダメな人なのに、ちゃんと神さまから愛されている」ってのが、俺が、救われた意味なのかも、とも思える。
言い方を変えれば、こんな俺にも、一つだけ誇ることができることがあるんだなと思う。
「誇るのなら、主を誇れ」である。
こんな俺をも愛し、救い出してくださった主なる神さまは、ほんとうに誇るべき方であると思う。