新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

罪人

罪人(つみびと)っていうとなんか、殺人(刑法199条)とか窃盗(刑法235条)とかの犯人をイメージしちゃいますね。

だから、クリスチャンの方々が、我々は、すべて罪人ですっていうと、「いや、違う。自分は罪人ではない」って反論したくなります。

でも、聖書の意味する罪人ってのは、原語からすると「的外れ」みたいな意味の言葉です。

ところで、俺達は、人!なんだけど、最初の人!は、有名なアダムなんです。そして、その妻がエバなんです。
人は、神さまによって創られたのだけど、神さまの最高傑作!です。

そして、アダム達は、神さまに親しくしていただき、エデンという春の陽だまりのような所で、ほんとに平和に、生活していたんですよ。

神さまの愛を感じつつ、アダム達は、自分達を中心に生きるんじゃなく、神さまを中心に楽しく生活してたんです。

それがヘビ!(まあ、悪いものの喩えだと思います)の口車にのって自分勝手なことをやらかしちゃって、「神さま中心」から「自分達中心(自分勝手)」という生き方になっちゃったわけです。つまり「的外れな生き方」(罪人な生き方)になっちゃったわけです。

この地は、神さまが創造したので、神さまを中心に生きてこそ正常に機能するのでしょう。したがって、最初の人が的外れな生き方を始めた瞬間、この地に歪みが生じ(この歪みゆえに、いろいろシンドイことも起きるようになってしまったし、自然災害とか)、それ以来、アダム達の子孫、つまり全ての人も、神さま中心の生き方から、自分達中心(自分勝手)な生き方をするものになってしまいました。

そういうことで、俺も、貴方も、本来は、それぞれ神さまの最高傑作なのに、的外れな性質(罪人の性質)を帯びてしまいました。

そして、その罪の報いは、「死」なわけです。たぶん、この地は、神さまが創造したので、神さまを中心に生きないのであれば、命を保てないのでしょう。

で、「死」が最大の強敵なわけです。たぶん、アダム達が最初に住んでいたエデンの園では、死ってのはなかったのかもしれません。また、地も歪んでいないので(呪われていないので)、地震ってのもないと思います。

まあ、そんなわけで、俺達の罪(的外れな性質)を許してもらえたら!って思うわけですが、神さまは、聖なる方だから、なし崩し的に、悪を見てみぬふりはできないわけです。

そこで、だれかが身代わりになるって方法が、古くからあるわけです。

でも、考えてみると、僕らは、全員罪人なわけで、みんな0点なわけです。
だれか奇特な方がいて「私が罰を受けるので、他の人達の罪を許してください!」っていってみても、「あなたも0点なのだから、身代わりにはなれないよ」ってことになるわけです。

そこで、神さまは、人類の考えのお呼びもつかない方法で、俺達を救い出してくれたわけです。

つまりイエス様(神さま)自身が、なんと人の姿をとって、この地に現れて、生け贄になって死んでくださったわけです。これであれば、100点の人が身代わりになってくれたのだから、他の人達の罪が許されるのです。俺達のようなもののために、神さまが、屈辱的な姿で、十字架にかかってくださったわけです。すごいことです。
そして、イエス様は、最大の敵である死にも打ち勝って見せてくれました。つまり、3日目によみがえり、百人以上の人の前に現れてくださいました。
そして、そのようなイエス様の十字架の業によって、俺達にも、永遠の命が与えられました。
そんなわけで、いままでの自分自身を中心にした視点から神さまを中心にした視点へと変えて(悔い改めっていいます)、イエス様を主(神さま)と心で信じて、告白すれば、私達も、罪から救い出されて、永遠の命を受けわけです。

地上での肉体が死んでも、イエス様が、再び地上に来られた後に、天国にあげられ、また、仲間や家族と再会し、イエス様と直にお会いし、言葉をかけていただき、この上ない平安のなかで、楽しく、暮らすことになります。
そんな希望を持ちながら生きているので、この現在の社会の中でも、イエス様に倣う(ならう)ものとして、成長していきたいと思っています。