新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

こんな人になりたい

今日は、朝、教会の成人クラスで、同志社の神学部の村上という先生について学びました。

榎本保郎牧師という方の「新約聖書一日一章」という本の中の一節に記載があります。

なんでも、その村上先生は、非常によくできる人で信仰も厚く、将来の同志社を担う人として期待されていた人でしたが、太平洋戦争に召集され、ソ連の捕虜となり、伐採作業に従事したそうです。そこでの話です。

「そこでの食物の欠乏は言語に絶するものがあった。わらの入った黒パン、湯のようなスープ、腐りかけた塩にしん、それもほんのわずかだった。
そのため、捕虜になった人々は互いに食物を奪い合い、餓鬼のような生活をつづけていた。
が、その中で先生は毎朝ひげをそり、きちんと服装をととのえ、騒がしい中で静かに聖書を読んでいた。 ノルマが達成できなくて、わずかな食料を減らされる人に、黙って自分の食物を与えていた。
階級は二等兵だったが、しだいに人々の驚異が尊敬に変わり、敬愛された。しかし、伐採のとき、木の下敷きとなり、かの地で召された。
いよいよ引き揚げの日が来て、ソ連当局は物の持ち帰りに目を光らせていたのであるが、先生といっしょに働いた人々は自分のものは何一つ持たず、みんなで手分けして先生の遺品を奥さんに届けたのである。それは聖書、讃美歌、哲学書であった。」

これを読んで、私だったら、餓鬼のようになっただろうと思う。
ほんとに、この人は、天に宝を積んだなあって思うし、キリストの愛を自分の行いで示したと思う。

キリストの教えは、面白いもんで、僕らは、別に良い行いをしたご褒美で、救われるわけでない。神さまの一方的な憐れみにより、信じることにより救われるわけである。

でも、信仰によって救われて、神さまが何時も、そばにいてくださると、いつもそばにいる夫婦が似てくるのと同様の原理によって、こんな不品行な俺のような奴でも、少しづつ行いも神さまにかえていただけるみたいだ。

だから、いまは、この村上さんみたいには、私は振る舞えないけど、いずれ、神さまによって、こんな風に俺もなれるように思える。コツコツと毎日、新たにされることによって。