新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

7月13日(水)神召キリスト教会の祈祷会

7月13日の神召キリスト教会の祈祷会に参加しました。

メッセージは、聖書のペテロの手紙第一 1章17節〜19節でした。

メッセージの流れを書いておきます。

(1)聖なるものとなりなさい、っていっても、
道徳的な意味ではなく、
「この世から分離されて、主(しゅ)なる神さまのものとされている」という意味。
→神さまのものとして、神の民として、歩まさせていただく。

(2)神の子としての特権
ローマ人への手紙8:15 神さまを「アバ、父。」と呼ぶことが許されている。
 御国の世継ぎとされる。
以上、先週の復習?

(3)神さまに畏敬の念をもって接する。

使徒ペテロによるアドバイス

「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい」(ペテロの手紙第一1:27)

「恐れかしこんで」→恐怖というより、「畏れ」(新共同訳)、畏敬の念

(4)どんなときに、語られたアドバイス
 困難な時、迫害されて命をも失うかもしれないクリスチャンに向けて、語られた。
→命をも失うかもしれないとき、なにを優先すべきか?
→神さまを畏れる(おそれる)ことを優先すべき。

(5)みことばを聞くときも、畏敬の念をいだいて聞いているかが問われる。
→何度も聞いているし、いつもと同じだと思って聞くと、言葉だけが流れていってしまう。

畏敬の念をもって聞くことで、聖霊なる神さまが働いてくださり、大きな恵みと、不思議な力を賜る。

(6)例 マルコの福音書4章3節〜9節
エスさまが、たとえを話された。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった」

→たとえの真理を理解しないまま、聴衆は、「あたりまえだ」と思って、気にとめなかった
→12弟子は、イエスさまのたとえに真理が込められていると考えて、イエスさまに、尋ねた。

(7)みことばは、神さまの言葉!
神さまに畏敬の念をもっていれば、
神さまの語られる、みことばに、神さまの真理が込められていると実感し、
注意深く聞くことができる。

(8)ただし、深読みをしすぎて、拡大解釈をしてはだめ。みことばの大きな流れを考えて、神さまのことばに耳をすます。

(9)いまも生きている聖霊なる神さまが、働いてくださって、聞く一人一人に、みことばの適用を与えてくださる。
→同じ言葉を聞いても、どのように受け止めるかが、違う。
聖霊さまが、豊かに働いてくださる。

 そのためにも、大前提として、神さまを畏れることが大事。
 単なることばとして、ぼんやり聞くのではなく、
 神さまのことばだから!と畏敬の念をもって聞くことで、大きな恵みが与えられ、義に導かれる。

(10)謙虚になって、みことばを聞く。
神のことばが語られているかぎり、謙虚になってきく。
→そうすると、聖霊がはたらいて、我々を、みことばによって養い、成長させてくださる。はげまして、力を与えてくれる。
→主がともに、いてくださる。→危険があっても、おそれない。
→確かに、罪が支配している、この世では、時代の流れに流される。それは、クリスチャンとて、同じ。

 でも、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ人の手紙8:32)
→みことばは真実。神さまの約束。
 神さまは、ぜったいに、見放さない(親が見放しても、神さまは、見放さない)(詩編)。

 ペテロによる手紙がか書かれたころ、迫害が多い。
→クリスチャンたちは、散らされて、ひとりぼっちになったり、言葉も通じない地域に、追いやられたり、ほんとうに大変な状況。

 そんなときでさえ、神さまに畏敬の念をもって接することで、恵みが与えられた。
→現在においても、私達は、地の塩として、キリストの恵みを分け与えられるように、チャンスが与えられるはず。
→弱さがあるから、神さまの前にこれないって考えるのではなく、弱さを持ったままで、主なる神さまの前に出ていく。
→神さまを畏れつつ、まず、出ていく。
→畏れつつ、神さまのみことばを聞いてみる。

→神さまは、私達を愛してくださっている。

 今回も恵み深いときでした。
 みことばを、畏敬の念をもって聞くってのが、
 大きな恵み、力を受け、成長できる方法だなって思いました。
 神さまに感謝です。

私は、最近、礼拝に遅刻することがあります。
仕方がないときもありますが、神さまに畏敬の念を抱いて、礼拝に臨むべきと、気づかされました。

人間の知恵では、「おとうちゃん!」って言えるような間では、畏敬というより、親しみを覚えます。

究極の畏敬と、究極の親しみとが、同時に存在するってのは、人間の頭では、想定しづらい気がします。

でも、それが同時に存在してくださるのが、私たちの信じる神さまなんだなって思いました。

神さまにあって、成長していきたい!って思いました。