新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

7月20日の祈祷会

7月20日の祈祷会に参加しました。

メッセージの箇所は、ヤコブの手紙5章16節から20節でした。

メッセンジャーは、高橋正人牧師ではなく、高橋惠子伝道師でした。

(1)祈りを主が用いてくださる。

(2)祈りは、私たちが思った形できかれるとは限らない。
→思ってもみない形で、祈りがきかれる場合もある。

(3)主の導きは、人の想像を超える。

例『ある中国地方の牧師(女性)が用事があって、車を運転していた。
ヒッチハイクの若者男性が2人、道端にいた。
用事を済ませた帰りに、まだ2人がいた。
普段は、ヒッチハイクの人を車に乗せることもないのに、
ふと、彼らを乗せなければならないって気がして、
乗せてあげた。

車内で、その人が牧師だという話になり、
それを聞いた若者2人のうちの一人が、とても、おどろき、
「自分もクリスチャンです」といった。
ただ、最近、忙しくて教会に行けていないようだった。

どこの教会に通っているのか聞いてみると、関東の教会であったが、
その牧師と、同じ教団に属する教会だった。
その人は、もう一人の友人には、自分がクリスチャンだということを伝えていなかった。

車内で、かかっている音楽が、ゴスペルで、その音楽を気に入ったこともあり、
その、もう一人の友人も、教会に少し関心をもってくれる機会が与えられた。

聞けば、そのクリスチャンの一人のためには、その関東の教会の人たちが祈ってくれていた。
偶然といえば偶然だけど、関東地方と中国地方という場所を、隔てて、
若者を教会に来れるように励ますのみならず、
その友達へクリスチャンであることを証しする機会までも与えられた。』

→神さまは、思ってもみない方法で、祈りにこたえられる。

(4)忍耐をもって祈る。

(5)どんな状況にあっても、主の御名をかかげることができる。
→私たちは、イエスさまの血潮によって清められた「信仰による義人」

(6)「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六カ月の間、地に雨が降りませんでした」(ヤコブの手紙5章17節)
→エリヤをひきありに出して、祈りにスポットライトを当てている。
→エリヤは、神の人のなかの神の人!
 預言者の中の預言者
(当時の人にとっても)格別の存在(マタイの福音書16章14節など)

 エリヤは、三年半も集中して神に祈りを捧げた。
 「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」(第一列王記第18章37節)
 「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った(第一列王記第18章38節、39節)」

 しかし、民は、根本的に、まことの神に立ち返ったわけでなく、霊的な状況は、低いまま、かわらなかった。

 エリヤは、イザベルに脅されて、自分のいのちを救うために立ち去ったが、
 これとて、エリヤの評価を下げるものではない。
 →エリヤは、主の火が降れば、民が、まことの神に立ち返ることを確信していただけに、それを経ても、かたくなな民に、かなりの失望、絶望、落胆があったと思われる。
 最高の献身者にしかわからない、失望、絶望、落胆があった。

(7)このように別格なエリヤを引き合いに出して、
 「私たちと同じような人でしたが」とヤコブはいう。
 ふつうに考えれば、私たちが、エリヤと同じような人とは、到底、思えない。
→なぜ?
 
→『エリヤを見るのではない。
 エリヤを遣わされた神を見る』べき

 私たちには、聖霊なる神さまが、私たちの身体を宮として住んでくださっている。
→私たちの祈りが、エリヤの祈り以下であってはダメ。

(8)エリヤの祈りって?
 1.熱心に祈った。
 祈り通す←人間には難しいこと。聖霊さまが助けてくださる。
 2.みことばを握って祈る。
 エリヤの「地に雨が降らないように」との祈りも、勝手な自分の戦略で祈ったわけではない。
 ←申命記11章16節〜18節「・・・そうなると、雨は降らず、・・・あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻み付け・・・」という、みことばを握って祈った。
 3.正しい動機で祈った。←とりなしの祈り
 イスラエルの民が、まことの神に立ち返るために祈った。
(←真理から迷い出た者を引き戻すために祈る)
 私たちが、自分の力で祈るのなら、自分の願いで精いっぱい。
聖霊なる神によって、とりなしの祈りに、導かれる必要がある。

(9)いのちをかけて祈る

 聖霊待望会で祈っていると、
いのちをかけて自分の前に出るものはいないのか?という主の御声
→後に調べてみると、エレミヤ書30章21節
「その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。
わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。
わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれか。主の御告げ
あなたがたわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」

「わたしに近づくためにいのちをかける者」→大祭司を意味
年に一度、厳格な方法で清めて、至聖所に入ることが許される

「権力者、支配者」→王

大祭司であり、かつ、王→イエスさましかいない。

エスさまが、その命によって、私たちが、神に近づき祈る道を開いてくださった。
→神さまに近づいて祈ることができる特権を当たり前だと思ってはダメ。
 一人ひとりが、祈り手として、格別の使命を与えられている。

(10)祈りは、どのように用いられるか、わからない。
 でも、祈りの奉仕は、祈りによってしか満たすことができない。
 神さまが、敵であるバアルにひざをかがめず、バアルに口づけをしなかった者を七千人残してくださったのも、エリヤの祈りと無関係なわけではないはず。

 私たちも、聖霊なる神さまに、導かれて忠実な祈りをし、
 祈りの祭壇を築きなおす!


 今日の祈祷会も、実りの多い祈祷会でした。
 神さまに近づいて祈る特権を、当たり前だと思ってはダメだと実感した。
 もっと、心を込めて、集中して、祈り通していきたい。
 そのためには、人間の力には、限界がある。
 聖霊バプテスマを受けて、聖霊さまに押し出されて、祈っていく。
 祈りの祭壇を築きなおしていく。そう実感させていただいた。
 主なる神さまに感謝です。