新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

相模原市殺傷事件

あまりに酷い事件がおきました。ご遺族の方に主の慰めがありますように祈ります。

以下、新米クリスチャンの私が考えたことです。間違いもあるかも知れないけど、書いてみます。

(1)犯人は、障がい者の方を上から目線で見ていました。
それを殺人に結びつけたのが異常すぎるけど、根本には、この現在の世に、はびこる「上から目線」、差別ってのが罪の端緒となったと思います。

(2)神さまという水準からみたら、私たち人間は、みんな愚かです。

創造主である神さまの基準からみれば、私たちは、100点満点(60点以下で落第。不合格の場合は命を失う)みたいなテストを受けて、1点とか、2点とかしかとれないようなものだと思います。

神さまの基準でいえば、私たちの単純な能力も、高くなく、私たちは、みんな芋虫とか毛虫みたいなものだと思います。

私たちが、神さまを理解するのは、毛虫がインターネットを理解するのより難しいと思います。

(3)人間同士で、差別するのは、2点とれた人が、1点とれた人をバカにしたり(自分も、本来は落第なのに)、毛虫が、毛の長さが短い毛虫をバカにしているようなものです(結局は、自分も毛虫なのに)。

(4)神さまであるイエスさまは、そんな私、私たちのために、低くなってくれました(神さまという最高の位置から人間になってくださった)。そして、私たちの身代わりに十字架につけられ、さばきを受けてくれました。

(5)本来、100点の方(イエスさま)が、1点の人、2点の人といった落第した私たちのために、身代わりとなって死んでくださったようなものです。

それだけ神さまは、1点の人も、2点の人も、愛してくださっていると言えます。

それなのに、神さまが愛している対象者の一人である1点の人を2点の人が傷つけたり、バカにしたり、できますか?ってことだと思います。決してできないはずです。

(6)まずは、私たちは、的はずれという罪を負っていて、神さまからみたら、本来は、みんな落第点だってことを理解すべきだと思います。

能力的にみても、人間の目でみると能力に違いがあるように見えるけど(毛虫だって、毛虫の目でみたら、毛の長さの違いとか、はう早さとか、能力に違いがあるようにみえるだろうけど)、神さまの水準からみたら、ほんと、全員ダメな子ってことです。

(7)このことからも、自分のことを棚にあげて、他人に上から目線で接することは、するべきでないと思います。

(8)そして、神さまは、私たちの身代わりとなって死んでくださって、私たちの命を救ってくださった方です。
その神さまは、東大卒の人も、勉強は、いまいちの人も、100メートルを9秒台で走れる人も、走るのが苦手な人も、健常者も、障がい者も、「変わらずに」みんなを愛してくれてます。

(9)一人子である御子のイエスさまの命をも与えて、救ってくださった神さまが愛している人達を、私たちがバカにしたりするのは、本末転倒です。

(10)神さまから離れて生きて来た的(まと)はずれな生き方(罪)から、立ち直って、イエスさまを救い主であるということを信じることで、神さまと自分との関係を修復することから、始める必要があると思います。

(11)そうすれば、目の前の人も、神さまに愛されているって心底から思えるように、されます。そうすれば、主に仕えるように仕えることもできます。互いに人を自分よりすぐれた者と思って(ピリピ人への手紙2章2節)、仕えあうことができるはずです。

個人的には、自分が神さまになったがごとく、自己中になっていることが、罪の始まりだと思いました。

私自身、自分の心の中をみると、差別的な感情がすくっていたりします。自分の心の中を見張り、神さまの御心にかなっているかを吟味していく必要があると思いました。

人間には無理でも、聖霊なる神さまが助けてくださるので、ちょっとずつでも、成長していけます。