新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

7月24日神召キリスト教会礼拝参加

神召キリスト教会の礼拝にいって来ました。
今回は、夕拝に参加して来ました。

メッセージの流れをメモします。
説教者は、高橋牧師です。
聖書箇所は、民数記21章1節〜9節でした。

(1)イスラエルの民は、エジプトを出て、カナンの地(目的地)につくまで、40年かかった。
→普通なら、3日、長くても7日で着く距離なのに40年かかった。
板橋駅から池袋まで、徒歩30分の距離を43日間かけて歩いたみたいなペース

(2)そんなに長くかかってしまったきっかけ(民数記13章25節〜14章)
→カナンの地を偵察にいった12人中10名が、
否定的な報告をした。
「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」
 見た目の現実に怖じ気づいた。
→これをイスラエルの人たちは信じて、不平不満をいった。
→神さまの約束より、現実を信じた。

12人中2人→ヨシュアとカレブの二人
 神さまが、あの地を与えるというのだから、神さまを信じて進むべき。
→神さまを信頼した。

神さまにつぶやいた者で、「二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。カレブとヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることができない」(民数記14章29節)

神さまを信じていれば、イスラエルの民は、3日〜1週間で、カナンの地に入れたはず。
→見た目ではなく、神さまの約束を信じるべき。

(3)40年の行程のなかで、最後の時期(38年目とか、40年目とか)
→カナンの地の、すぐ隣まで来て、カナン人との戦いにも勝利。
→しかし、最後の難関のエドムという場所を通ることができず、迂回する必要が生じた。
→登山で、やっと頂上だ!と思ってがんばったら、それは頂上でなくて、もう少し上らなくてはならないってことがわかった時の気分
(4)イスラエルの民
→がまんできなくなった。
困難なときほど、本音がでる。
→あることないこと、神さまに不平をいってしまった。
「パンもなく、水もない」→ほんとうは、食べ物も、水も、神さまが与えてくれていた。
「みじめな食べ物」→神さまが与えてくれた「マナ」という食べ物に対して、あまりに酷い言い方をした。
(5)神さまは、養ってくれていた。
 マナを40年間にわたって降らせてくれた。
 一日、二日では、偶然もあるかもしれないが、
40年間は、偶然にはあり得ない。
→神さまは、生きており、守ってくださっている。
 肉が食べたいって民がいったら、うずらを降らせてくださって、飽きるほど食べた。

(6)イスラエルの民は、40年にもわたる信仰の訓練を受けていたはずなのに、つぶやいてしまった。
→これが一番問題。

(7)死のおそれ
 神さまは、イスラエルの民に、二十歳以上の登録され数えられた者は、カナンに入ることができず、その前に、必ず死ぬと語られていた。でも、もうすぐカナンだし、20歳以上で登録されているアロンとモーセも生きているし、自分達も、死なずにすむのでは?って期待。もしかすると、神さまは、思い直されてくれたのでは?って淡い期待をしていた。

→しかし、やはりアロンが死んだ。
しかも、カナンに入るのに、回り道をしなくては、ならなくなった。
イスラエルの民は、やはり、自分達も、もうすぐ死ぬのだと感じ、
パニクった面がある。→だから、いろいろ、つぶやいてしまった。

(8)モーセも、カナンに入れないの?
イスラエルの民が、水をくれってつぶやいたとき、
神さまは、一度目は、岩を杖で打てといい、モーセは、神さまの言葉にしたがって、岩を杖で打った。すると水が出た。

民数記20章で、同じ問題が起こったとき、
神さまは、会衆の前で岩に命じれば水がでるといったのに、モーセとアロンは、民に対する怒りで感情的になっていたので、岩に命じることなく、一度目と同様の方法(杖で岩を打つ方法)を実行してしまった。
→神さまの言葉にしたがわなかったとされ、
カナンに入れないこととなった。

(9)モーセは、つぶやかなかったの?
 モーセにとってみたら、民を導いて40年も奉仕してきたのに、カナンに入れないのは、理不尽にも思える。
確かに、民に対する怒りのせいで、神さまの言葉に反してしまったとはいえ、カナンに入れないで死ぬのに、不満がなかったの?
→それでも、モーセは、つぶやかなかった。

(10)なぜ、モーセは、つぶやかないでいられたの?
「究極的な目的地は、この世にはない。御国だ。この世でいただくものは、いっときの物にすぎない。カナンとて、究極的な目的地ではない」ってことに気づいていたから。
→神さまと一緒に歩んでいく。御国を目指していく。
その副産物(おまけ)として、この世でも、恵まれるってことはある。

(11)イスラエルの民は、神さまに対して非難して罪を犯したので、燃える蛇にかまれて多くが死んだ。
→燃える蛇・・・噛まれるとやけどみたいになる、猛毒の蛇の意味

(12)イスラエルの民は、40年近く旅をしているけど、いままでは、この蛇に噛まれたことがなかった。
→神さまに守られていた。
神さまの計画は、人間の目には不思議
それでも、くさることなく、神さまを信じて歩む。

(12)ピンチはチャンスになる。
→悔い改めれば、神さまは、許して下さる。

(13)燃える蛇を作り、それを旗ざおにつけろ。すべてのかまれた者は、それを仰ぎみれば生きる。
→青銅で燃える蛇を作り、仰ぎみると、生きた。

(14)でも、なぜ、人々を噛んだ燃える蛇、みたくもない蛇を、仰ぎみるのか?とても不思議。
→神さまがそういったから。
→神さまの言葉に聞き従う信仰をみている。
→蛇を見て、罪をおぼえて、悔い改める。

(15)青銅の蛇→イエスさまの十字架の予型となっている。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(イエスさま本人)も上げられなければなりません。」(ヨハネ福音書3章14節)
→十字架も、神さまの愛を示すと同時に、処刑の道具でもある。さばきと愛とが表裏一体となっている。

(16)しかし、青銅の蛇自体を偶像として礼拝してはだめ。信仰の対象ではない。旧約聖書の第二列王記18章4節。

(17)神さまに聞きしたがうことを第一とする。
「見よ。聞きしたがうことは、いけにえに勝る」(旧約聖書の第1サムエル記15章22節)
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(新約聖書のローマ人への手紙第11章24節)


とても、恵みに満ちた礼拝でした。

現実は、厳しくても、神さまの約束を信じるってことが大切だと思いました。

この世での自分の計画がうまくいかなくても、最終的な目的地が御国にあることを思いだし、不平不満を呟かないようにしようと思いました。

神さまに聞き従って、自分を生きた聖なる捧げものとすることが神さまによろこばれることになると思いました。