神召キリスト教会の7月31日礼拝
7月31日の神召キリスト教会の礼拝に参加しました。
少し、時間がたってしまい、忘れているところもありますが、メッセージの流れをメモしてみます。
(1)旧約聖書のエリミヤ書31章2節
「剣を免れて生き残った民は、荒野で恵みを得た」
(2)エリミヤ→涙の予言者
(3)イスラエルの民
→優れているから神さまに選ばれたわけではない。
(4)神さまからの恵みを忘れ、主を信じなくなってしまう。
→バビロン補囚(70年間)。
住み慣れた土地から、外国の土地に移され、囚われてしまう。
→その補囚の地にあっても、神さまの恵みはある。
→見放されたように見えても、神さまは、イスラエルの民を忘れていなかった。
(5)荒野の恵み
出エジプトにおいても、荒野にあって、マナや水が与えられた。
→神さまのおかげ。
すべてがうまくいくかというと、そうではない。
病気、人間関係、なにをやってもうまくいかないとき
→人生の荒野
そういう荒野にあって、神さまを信じていく。
→そうすると、
困難に見えたことが、後々、訓練になっている。
(6)むしろ、順風のときに神さまに出会うことは、まれ。
→荒野で、神さまに出会う。
事業でも、うまくいっているときは、人が集まってくる。
事業を閉じると、人が去っていく。
しかし、神さまは、去っていかない。
神さまを信じる者同士の教会での交わりは、去らない。 事業の閉鎖という荒野において、神さまを知る。
(7)自分で完成できると思うことは、意外と実現できない。
(8)モーセの場合
用いられたのは、80歳をすぎてから。
40歳〜80歳の間、なにもないと思われる荒野で
民を率いていく力が養われた。
(9)ダビデの場合
王につくまでに20年近く荒野で訓練をつむことになった。
→神さまとの深い交わりを学んだ。
→ダビデが書いたといわれる詩篇は、
ダビデが荒野で、神さまに交わる言葉に満ちている。
(10)イエスさまも、公生涯の開始にあたって、
荒野で試練をうける。
→悪魔もバカではない。
→悪魔も、みことばを知っている。
もっともらしいことをいっていく。
しかし、みことばの神髄を見極める必要あり。
(11)以上のよう、荒野は、神さまに出会う一番良とき。
→モーセの40歳から80歳の間の荒野での生活
→モーセが若いときに、イスラエルの解放といった希望があったが、荒野での生活は、そういう希望と180度異なり、人生は終わったと思ったはず。
→しかし、その荒野の経験が役に立った。
(12)神さまは、永遠の愛をもって、私たちをみてくださる。
神さまは、遍在する(どこにでも、いて下さる)
→遠く感じるのは、自分が神さまを退けて、そう感じているだけ。
→神さまは、あなたの内にいる!!!
偶然ではない。神さまが近づいてきてくださった。
(13)エリミヤの新しい契約
(14)十戒 律法
→だれも行うことができなかった。
(15)新たな契約→救いの契約
→血による契約
←聖餐式・・・契約を思い起こさせる。
(16)新たな契約は、石の板ではなく、
「心の板に書かれている」(コリント人への手紙 第2 第3章第3節)
「御霊による心の割礼」(ローマ人への手紙第2章第29節)
→真の神さまの民とされた。
(17)自分の力で、歩んでいくのではなく、
聖霊なる神さまによって、歩まさせていただく。
(18)みことばを、自分の記憶力で記憶できなくても、聖霊なる神さまが、思い起こさせてくださる。
(19)私たちは、罪で緋のようにあかくても、雪のように白くされている。
恵みにみちた礼拝でした。
私たちは、人間的な目でみたら、
なんの益にもならない経験であっても、
神さまは、私たちを見捨てないと思いました。
むしろ荒野を通って、成長させてくださると感じました。
神さまは、私たちと救いの契約を結んでくださりました。感謝です。
契約は、心の板に書かれており、聖霊によって、証印されている。聖霊が、いつも助けてくださる。とても、感謝です。