神召キリスト教会の礼拝 2017.05.14
神召キリスト教会の礼拝に行って来ました。今回は、ルカの福音書8章22〜25節でした。
(1)さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
(2)弟子達の中には、漁師の人が、少なくとも4人いたはず。
(3)夜に、ガリラヤ湖に、漕ぎいでる。→漁師の目からみると危険にみえる。
(4)自分が行きたいから、沖に出たのではない。
(5)それでも、イエスさまの言葉にしたがって沖に出た。←ある面、弟子達は、行動できている。
(6)人生も、イエスさまと共にいく航海。
(7)イエスさまと一緒だからといって、嵐が来ないわけではない。
(8)神さまに、舟にのれといわれて、乗ったのに、嵐が来ることある。
(9)嵐に遭っても、神さまを信じる。
(10)「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
(11)イエスさまは、弟子達を訓練して、何かを教えようとしてくれる。
(12)神さまが、おられる。→沈みそうになっても沈まない。きちんと、目的地に着かせてくださる。
(13)嵐のときにも、心は、平安であるべき。
(14)平々凡々のときに、平安を感じるかというと、そうでもない。平安に慣れてしまっている。
(15)危険なとき、問題があったとき、平安について考えさせられる。
(16)弟子達は、イエスさまと一緒にいて、奇跡を見てきた。十分に、イエスさまを知っていたはず。
(17)それなのに、イエスさまが、自分には、どのように関わってくださる方か、わかっていなかった。
(18)嵐を通じて、もう一度、信仰に目覚めさせてくださる。
(19)神さまを見上げさせて、信仰を高めてくださる。
→嵐があっからこそ、今の自分がいる。
(20)嵐があったことにより、イエスさまがどういうお方なのか、自分の信仰がどういうものかを思い起こさせてくださる。
(21)イエスさまは、水をかぶろうが、安心して寝ていたはず。
(22)なぜ、眠れたのか?
(23)イエスさまは、父なる神さまを完全に信頼している。
(24)なぜ、父なる神さまは、自分を使わしたか、をイエスさまは、知っていた。
→祈り、交わりに、よって知った。
→イエスさまが地上におくられたのは、十字架で命を捧げるため。
→信頼し、目的を知っていた。
(25)嵐では、命を失わない。十字架という目的までは、命を失わない。
(26)怒り、恐れ
←神をまったく信頼しているなら、恐れは、不要。
→約束どおり、神さまは、私といてくださる。
→おじまどわない。
(27)カルバンいわく、イエスさまは、人間としては、父なる神さまに、信頼し、ぐっすり眠っていた。しかし、神としては、弟子達を見守っていた。
→主なる神さまは、まどろむこともなく、眠ることもない(詩編121編)
(28)弟子達が知っているつもりだった約束を、思いだせず、実践できなかった。
(29)みことばをしっかり握っている
→ピンチのときに、あらわれる。主がいてくださるから大丈夫。
(30)人生も、波があり、高くなったと思ったら、直後に、どん底になったりもする。
(31)しかし、ピンチがチャンスでもある。←信仰を与えてくださる。
(32)イエスさまは、波を静めてから、たずねられた。
いったい信仰は、どうなの?今のの信仰は、どうなの?
←この順番が大事。私たちに、信仰の弱さを気づかせてくださるときには、すでに、問題を解決してくださっている。
私たちは、自分の信仰のなさに、がっかりすることがある。自分の信仰の弱さに、申し訳なくなることがある。
でも、自分で、自分の信仰が弱い、ダメだったと悔い改めるとき←すでに、神さまが、主への思いを起こさせてくださっている。
←すでに、主を見上げている。
←問題は、すでに、解決している。(見た目には、まだ、変わらないように、見えても、解決している)。
(33)おじまどうことがないように、神さまは、我々に、しるしを見せてくれた。
→十字架
→神さまのいのちに生き続けなさい。
(34)十字架という苦難の舟、イエスさま以外だれも、のれない舟にイエスさまは、乗ってくださった。
←そこまでしてくださった神さまが、良くしてくださらないはずがない。
(35)神さまが寝ているように、思うとき、実は、一番、しんどいときには、神さまは、私たちを、支えてくださっていた。
→あとで、神さまの愛に気づくことが多い。
私たちの信じる神さま
→主、われらとともにいる
→インマヌエル
神さまがともにいてくださることを信じ、嵐の中でも信じつづける。
恵みに富むメッセージでした。
私は、自分の信仰の弱さに、自分は、ダメだなって反省することが多いです。
でも、信仰がなければ、ダメだなって気づきさえもしません。したがって、やはり、信仰は、与えられているんだなって思います。
神さまは、そんな私の心を、ある意味で、悔い改めと認めてくださっているんだなって思いました。
それは、神さまを見上げることになるので、すでに、問題は解決しているのだな。って思いました。
主なる神さまに感謝です。