新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

あがなう(購う)って何?

教会で、「あがなう」という用語が使われるけど、いまいち、わかりづらい。

①わかりづかい第一の理由
日常では、使わない。

②わかりづらい第二の理由
二種類の別の意味で使われてるように思う。

ただでさえ、日常的な言葉でないのに、異なる2つの意味で使われているから、「あがなう」という言葉は難しいのかもしれない。


(1)ある物(お金とか)と引き換えに、別の物を取り戻すというの意味。
英語だとredeem(リディーム)

例 イエスさまによって私たちは、あがなわれた。
エスさまは、命をもって、私たちを罪からあがなわれた。


(2)罪を償うの意味
英語だと、expiate(エクスピエイトゥ)とか、atone for とか。

例 イエスさまは、私たちの罪をあがなわれた。


例えば、「罪をあがなう」というとき、(1)の意味だとすれば、罪を取り戻すになり、意味不明になる。
(2)の罪を償うの意味だと、しっくりくる。

例えば、「私たちは、神さまにあがなわれた」というと(1)の意味だとすれば、「私たちは、罪のなかからイエスさまが命を代価として取り戻された」、という意味になり、しっくりくる。

まとめ
「罪」を、あがなうという場合は、罪を償う(つぐなう)の意味
「我々 」を、とか「罪人」をとかのように、人間を、あがなうという場合は、イエスさまの十字架での死を代価として、罪のなかから、我々を取り戻すの意味のように思う。
本当か知らないけど、そう思いました。

神召キリスト教会 2019年4月10日 祈祷会

祈祷会に行って来ました。
メッセージは、第1サムエル記22章でした。

(1)教会にあって、イエスさまと繋がっていれば、私も、少しずつでも成長でき、よい働きができるように成長させていただける。
(2)人間への恨みをいいたくなるときでも、神さまに関心の焦点を向ける。
(3)試練のなかにあっても、神さまを証する。等
を学びました。


ダビデは、サウル王から逃れるために逃亡生活を強いられた。

②そんな苦難の中にあっても、ダビデのところに集められる多くの人が与えられた。
ダビデを中心にコミュニティ
→イエスさまを中心とした教会の雛型

③この集められた人が後のダビデの勇士として成長した。
→現在の教会も同じ。神さまは無学な、ただの人を選び、召してくださる。
→イエスさまと繋がっている限りは、つくりかえられ、よい働きができるように成長させていただける!

ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」(第1サムエル記22:3)
→自分を酷い目にあわせたサウルへの恨みつらみではなく、神さまが自分にどんなことをされるかに着目。
ダビデの信仰姿勢
→現在社会においても、人の悪意に関心をもつのではなく、神さまに着目する。

⑤モアブの地
→異邦人の地
→本来、神さまを証しできるような場所ではない。
→そんななかでも、ダビデは、神さまを証し、告白している。
→現在の我々も同じ。試練のなかにあっても、神さまを証しできる。素晴らしい証しができるような状況でなくても、証しできる。
→主に委ねていく!みことばを通して確信が与えられる。

多くの恵みが与えられた祈祷会でした。

ドラゴンボール

鳥山明さんのドラゴンボールというマンガが好きです。

主人公の孫悟空は、とてつもなく強くなり、敵をやっつけるわけです。

孫悟空は、他の者より何が強いのか、何が違うのかって考えると、心の素直さ、優しさのようなものが他の者より高いように思います。

その素直さゆえに、修行もコツコツするし、どんどん強くなることができます。

でも、その心の素直さを、自分の力、努力で手に入れたわけではありません。

聖書にも、心の重要性が記されてます。
たとえば、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」 箴言4:20~27ってあります。

エスさまを信じると、その人のうちには、イエスさまの御霊である、聖霊なる神さまが住んでくださいます。

夫婦が一緒にいると、知らずに似てくるというのと同じように、聖霊なる神さまと共に生きていくと、聖霊なる神さまはイエスさまの御霊なので、我々も、徐々にではあるけれど、イエスさまに似てきます。

そうすると、自分の努力とかでなく、知らず知らずのうちに、自然と素直で清い心になっていきます。悪い考えに陥りそうなときも、聖霊なる神さまが、心の中で教えてくれます。

心が清くなれば、心は命の泉ですから、ドラゴンボール孫悟空のように、どんどん能力が高くなっていくでしょう。孫悟空は、どうやって自分の心を清く保っているのかはわかりません。

しかし、私たちには、イエスさまを信じて、聖霊をいただくことで、自然と心がよくなっていくという方法があります。まずは、神さまの義である、イエスさまを求めなさい、そうすれば、その他のものは、そえて与えられると思います。

先行きに不安を感じてる人は、教会にいってみるのも一案かと思います。教会は、クリスチャンでなくても来ていいらしいですし。

神召キリスト教会 4月7日 礼拝メッセージ

神召キリスト教会の礼拝に参加しました。
毎週日曜日 朝10時30分から礼拝があります。

本日は、高橋正人牧師がメッセンジャーを勤められました。
聖書箇所は、旧約聖書イザヤ書55章。
題は、「安らかに導かれる」でした。


(1)イザヤ書は、40章から、おもむきが変わる。

(2)40章~55章は、第2イザヤとも言われる。→救い主が与えられること、ゆるし、回復、なぐさめ、祝福が与えられる ことが記される。

(3) 1章~39章は、神さまによる「さばき」が語られる。
→バビロン捕囚を語られる。

(4)神さまは、さばきをしても、さばきのままで終わらせない。
→滅びのままで終わらせない。
→常に、神さまが語りかけてぐださる。命、恵みを与える約束

(5)イザヤ書53章、54章
後の日に、救い主が与えられることを預言。
→再建される!、罪が 許される。

(6)人間は、目先のことにとらわれて、未来のことが語られても、自分たちのことと受け止めることができない。

(7)イザヤ書53章 苦難のしもべ
→神さまの前に、私たちのために、さばきを代わって受けてくださる!
→救われる。
→イエスさまのこと!

(8)その救い主を待ち望め!と、私たちを招いてくださっている。

(9)「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」(イザヤ書55章1節)。
→大盤振る舞い!、代金をはらわないで、救いという良いものを貰える。

(10)我々は、渇いているか?
聖霊なる神さまに飢え渇きたい!
→もっと、聖霊に満たされたい!
→すべてのことを満たしてくださる。

(11)目先のことを祈るのも悪くないが、聖霊に満たされれば、他のものは、添えて与えられる。

(12)世の中では、ただより恐いものはない、とも言われるが、神さまは、異なる。
→神さまは、必要なら全部、ご自身でつくることができる。
→満たしてください!という願いに、神さまは、応えてくださる!

(13)ただで救いをいただいた私たち
→代価は、神さまが払ってくださっている。
→代価は、神さまの命、イエスさまの命!
→それは、神さまが、私たち一人一人を大切に思ってくださっているから!

(14)神さまに愛されていることを知る!
私たち一人一人が、神さまに愛されていることを知れば、私達は、神さまに、応えていきたい!との思いにかられる。
→神さまを愛して愛してやまないようになる。

(15)悪いことをしてきたことを神さまが赦してくださった。
→それを知ると、神さまを愛してやまない。

(16)ルカによる福音書7章
「 ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
「シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。」
→多く赦された者は、多く愛する。

(18)神さまが、私たち一人一人を深く愛してくださってることを知れば、自然と、神さまに応えていきたい、という気持ちになる!

(19)神さまの愛
→十字架に表されている。
→このことは、教会学校でも、よく語られる。
何度も聞いた話、当たり前と考えがち。
→ただ、知識としてではなく、「あの十字架は、私のためであった!」と真に知ることが大切。
→これが心の底からわかれば、牧師がメッセージで何を語らなくても、人は教会に来る。来るなといっても、来ざるにはいられない!

(20)神が救いを与えてくださるというのだから、受け入れればよい。

(21)期限がある。
「主(神さま)を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ書55章6節)
→戸が閉じられるときがくる。
→この世における個人的な終末、「死」というときもある。
→必ずしも年の順に亡くなるわけではない。
→誰も、明日、生きているかはわからない。
→それまでに、イエスさまを信じる必要がある。
イエス・キリストを信じるのならば、救いの話を聞いたら、いますぐ、このときに、信じるのがよい。
→1ヶ月、一年先と先延ばしすると、忘れてしまう。

(22 )物事を頼むときは、忙しい人に頼むほうがよい。
→忙しい人は、すぐに動いてくれる。

(23)熟成ってのもあるが、神さまによる救いについては、救いを聞いたとき、心に受け入れるのがよい。

(24)強迫ではないが、すぐに動いて、信じて行動に移してみるのがよい。
→しがらみもあるだろうが、あとまわしにして、信じる。吟味も必要だが、すぐに行動に移す。期限があるから。

(25)神さまは、なぜ愛してくださるのか?、人の常識や理解力では、神さまを理解できないところはある。

(26)「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8節、9節)

(27)人間の思いでは理解できないところがあるが、神さまは、私たちを愛し、私たちは神さまと共に歩まさせていただく。

(28)神さまは、むやみに信じるように強制しない。

(29)神さまは、我々のことを全部知っている。
→私たちが犯した罪も、知っている。
→将来も知っている。過去、現在、未来を知っている。

(30)神さまは、私たち一人一人にとって、一番、良いことをなそうと待っていてくださる!

(31)生きていると、「このことが自分の将来の何に役立つのかわからない。」って思うときがある。
→しかし、神さまは、ちゃんと私たち一人一人のことを覚えていてくださる。
→その神さまが、現在の状況を許されている。

(32)エステル記
エステルがなぜ王妃として選ばれたかは、当初、
わからなかった。
→後になって、神さまがエステルを導き、王にユダヤ人の窮状を訴えて、ユダヤ人を救う目的があったことがわかる。

(33)万事のことを益に変えてくださる。
人間の思いからは、望ましくないと思えることも、過去、現在、未来を知っておられる神さまが許しておられる。
→ゲツセマネでのイエスさまに倣ってみる。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

(34)何度も、イエスさまによる救いを語っても、宗教ということで、毛嫌いされて、忌み嫌われることはある。
→しかし、それは無駄ではない。

(35)語っても、信じてもらえなくても、一回であきらめない。クリスチャンとして表明していれば、言葉だけでなく、振る舞いでも、伝わる。

(36)イザヤ書6章
「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」」
→仮にイザヤしかいなくても、主なる神さまは、「だれかいませんか?」って聞いてくださる。

(37)「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
→イザヤの時代も、民に、神さまのことを語っても、信じない人が多いということ。
預言者エゼキエルも、神さまの言葉をかたっても、民は、頑な(かたくな)で、信じない。

(38)頑な(かたくな)な心を溶かしてくださる方がおられる。
聖霊
→一言、二言、救いを語り、祈る!
→時満ちるにおよんで、かたくなな心がとける時がくる。とけるときは、早い!

(39)日本のリバイバル
150年以上にわたって祈られてきた。
壁が破れて、一旦、とけ始めれば、とけるのは、早いはず。

(40)神の言葉は、むなしく地におちない。
イスラエルの地→雨や雪は、つぎの芽を育てる。
→日本でも、大雪のつぎの年は、豊作が期待できる。←水が豊富にあるから。

(41)神の言葉に力がある。
→天地すべてのものが、神の言葉により造られた。
→神さまの言葉には、人を変える力がある。

(42) 「 まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」
→洗礼を受けると、八百屋さんの野菜が輝いてみえたり、スーパーに陳列されている商品が笑顔に見えたりすることがあるのと同じ。
→実際に、山や丘が歌声をあげるのではないが、イエスさまを信じたとき、物事の考え、心が変えられる。
→意地悪や悪口を言われても、心が変えられて、それほど傷つかなくてすむ。

(43) 「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」 (イザヤ書55章13節)
→もみの木→常緑樹→永遠の命を示す。
→おどろ(やぶ、ざっそう)の代わりに、 白い雪のように美しいミルトス(銀梅花)のようにされる。

エスさまを救い主として、受け入れるとき、物事の考え方が変わって、永遠の命が与えられ、 ミルトス(銀梅花)のように美しくされる。

神の大いなる愛を知ると、神への感謝しかない。

(感想)
とても励みになるメッセージでした。
亡くなる前に、神さまの深い愛を知り、神さまを救い主として信じることが大事だと思いました。
救いの話を聞いたら、時間をおかず、しがらみは忘れて、信じさせていただく。人の心は、かたくなだから、祈って、聖霊なる神さまに、かたくなな心を溶かしてもらう。
神さまを信じると、罪が赦され、ものの見方が代わり、永遠の命が与えられることがわかりました。

種(旧約聖書)と花(新約聖書)

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先日、日曜学校教師研修会ってのがあって、参加してきました。

テキストは、「展望台から見る聖書」(マイヤー パールマン著)という本を使いました。

これは、まるで展望台から目の下に広がる全景を見るように、聖書66巻の内容を一目に見下ろすような本です。古い本ですが、コンパクトにまとまっていてよい本でした。

まず、旧約聖書新約聖書との関係を学びました。

この本では、「聖書は旧約聖書新約聖書の二つで一つの書物です。両者は植物の種や芽(旧約)と花(新約)の関係にたとえることができます。」とされています。

すなわち旧約で与えられた神様の救いの約束の種、芽が、新約において開花し、成就したということです。

花を作り上げるために必要なものは全部、種の中にあって、それが茎となっていくように、救いの計画は、新約聖書においてイエスさまによって実現される前から、旧約聖書の中にあったわけです。

とても優れた例えだなって思いました。

「わたし」と「私」 新改訳聖書での区別

聖書には、いろいろな翻訳がある。
新改訳聖書とか、新共同訳聖書とか。

私は、新改訳聖書を使っているのだが、
新改訳聖書は、「私」と「わたし」を使い分けていることをを知った!(私以外は、みんな知ってたのかも?)。

なんと、神さま(とうぜん、イエスさまも)に対しては、ひらがなの「わたし」を使っていて、それ以外の人には、漢字の「私」を使っているのです。

たとえば、マタイの福音書21章13節

そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

この「わたし」は、神さまのことなのだけど、たしかに、ひらがなで書いてある!
これは、便利だ。

旧約聖書において、神の御名を太字の「主」で表し、その他の通常使われる「主」と区別しているのは、知っていたが、「わたし」と「私」の区別は、しらなかった。

私は、大人になってから、クリスチャンになったので、いろいろ知らないことが多すぎる。
というか、こういうのも、教会で、最初のほうで教えてくれたら、よかったのに。自分で気づけ!ってことかも。

なにはともあれ、気づいて嬉しい。
神さま、感謝です。

オアシスブックセンター

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オアシスブックセンターという、キリスト教関係の書籍、グッズを販売している書店があります。

もともとは、新宿南口の方にあったのだけど、いまは、新宿西口の新宿大ガード西の交差点のとこに移転してました。もともとの新宿南口の店舗は、3月末日までの営業だったらしいです。

私の職場には、近くなりました。昼休みにでも、ちょくちょく行くことができます。

みなさんも、まちがって、前の店舗にいかないように注意してください。

JR新宿西口を出て、駅を背にして右に進み、次の大きな交差点を左に10メートルくらいです。