新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

過ぎ越しの祭

今日も、朝、6時30分に教会に集まって、神召キリスト教会のイースター早天祈祷会に参加しました。加えて、各自宅などでの連鎖祈祷、そして、牧師から届く、みことばメールによって、受難週を過ごしています。


本日は、マルコの福音書14章12~16節でした。お話を聞いて、以下のように、過ぎ越しの祭りについて考えました。


(1)過ぎ越しの祭って?
旧約聖書に規定される過ぎ越しの祭は、イスラエルの人達が奴隷として暮らしていたエジプトから脱出したときのことを記念し、傷のない羊を犠牲として捧げる祭です。

(2)傷のない羊は、イエスさまを暗示
その過ぎ越しの祭の季節に、いままさにイエスさまが十字架にかかってくださるわけです。新約聖書では、犠牲の羊はイエスさまご自身であったとも説明されています(第1コリント5:7)。

(3)旧約聖書新約聖書とが交わる瞬間
まさに、旧約聖書における過ぎ越しの祭は、新約聖書におけるイエスさまの十字架を予表しているなって思います。

エスさまが過ぎ越しの食事をする場面は、過越の祭から十字架へ、旧約聖書での救いの約束から新約聖書での約束の成就へ、バトンタッチする瞬間のように思いました。感慨深いなって感じました。

主なる神さまに感謝

教会では、主(しゅ)に感謝するって、よく言います。
主は、もちろん、神さまのことです。

クリスチャンは、だれかに良くしてもらったとき、その相手への感謝の前に神さまに感謝するってことがあります。

クリスチャンでない人から見ると、なぜ相手に感謝するより先に、関係ないようにみえる神さまに感謝するのか?と不思議に思うことがあるでしょう。

(1)牧師に感謝?
たとえば、教会では、牧師をはじめ教会の仲間からよくしてもらいます。すると、「牧師に感謝します」、「教会の◯◯さんに感謝します」って言いたくなることは多いです。

でも、そんなときに、クリスチャンは、あえて「主に感謝します」ということがあります。

その意味は、よい牧師を与えてくれた神さまに感謝します、よい仲間を与えてくれた神さまに感謝します、ということなのだと思います。

(2)私の昔の体験
私がまだクリスチャンでなかったとき、五人くらいの学生さんと昼飯を食べにいったときがありました。
私は、すでに社会人だったので、全員分のランチ代を私がもちました。

皆さんから感謝されたのですが、そのうちの一人は、私に感謝というより、まず神さまに感謝していました。その人はクリスチャンでした。神さまに感謝しますと言葉でいいつつも、笑顔で私にも感謝していることは明らかであったこともあり、別に嫌な気はしなかったけど、少し不思議に思いました。

でも、クリスチャンになった今なら、私にもわかる気がします。昼食をおごってくれた人を与えてくれたのは、神さまだから、なにをさておいても神さまに感謝するのは、ありなのです。もちろん、そのおごってくれた人にも感謝はするけど、まず神さまに感謝でよいのでしょう。

(3)なので、メッセージをしてくださった牧師に感謝したい場合も、牧師に感謝する前に、「教会に牧師を与えてくださった神さまに感謝します」と主なる神さまに感謝することは、ありなのです。

イスカリオテ ユダ

今日も、イースター早天祈祷会に参加しました。
聖書箇所は、マタイの福音書26章でした。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
エスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」

いろいろな疑問が浮かぶところです。今日の早天祈祷会に出て、祈祷会のお話をヒントに、新米クリスチャンの私なりに考えてみました。

疑問点
①12使徒の一人であるイスカリオテ・ユダが裏切らなかったら、イエスさまは十字架にかかっていないのだから、ユダは重要な役割を果たしたのでは?

②イエスさまは、12使徒の一人であるイスカリオテ・ユダが自分を裏切ってしまうことを予めわかっていた。それにもかかわらず、あえてユダを任命したのはなぜか。

ヨハネ福音書13章26節から28節で、
エスさまは、裏切るのはイスカリオテ・ユダだと示しているように思えるが、他の使徒達は、それに気づいていないのか?

ヨハネ福音書13章でイエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われたが、この意味は。

解析
①について、ユダの裏切りがなくても、十字架によるあがないの業は神が定められたご計画によるものだから、なんらかの方法で実現される。

②については、①の問題でユダの裏切りがなくてもイエスさまの十字架の贖罪の死は可能だったとすると、ユダを選んだ理由は、何なのか?という疑問につながる。
ただ、裏切りは、あくまでイスカリオテ・ユダの自由意思によること。神さまに預言されていても、ユダの罪が軽くなるわけではない。イエスさまは、何度もイスカリオテ・ユダに対して悔い改めの機会を促してした。最後まで愛をもって接してくださった。

この問題の根底には、神が見ている時間の概念と、人間が見ている時間の概念が違うということがある。神さまにあっては、一日は千年のごとく、千年は一日のごとく見える。人間は、過去と現在の概念が別個に見えているのに対して、神さまは、過去も現在も未来も同時に見えている。神さまには、原因も結果も同時に見える。因果律に制限されない。

③については、イエスさまの隣に座っていたヨハネには、裏切りものがイスカリオテ・ユダだとわかった可能性はあったが、ぺテロのような他の使徒達にはわからなかった。ぺテロが知ったら、その場で刀でイスカリオテ・ユダに切りつけたかもしれない。

④あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい、というイエスさまの言葉は、罪を則す言葉ではなく、この最後の最後までユダの悔い改めを促してる言葉なのだと思う。そして、あくまで私たちの自由意思に基づく悔い改めを尊重してくださっている。


まとめ

新米クリスチャンなりにまとめてみました。

(1) 自由意思が尊重されている。
結局、イスカリオテ・ユダは、自由意思で選択し、決断してイエスさまを裏切った。神さまは、そこまでして私たちの自由意思を重視し、けっして強制はしない。
神さまは、ユダの裏切りを前もって予知しておられた。けれども、神 さまがユダの裏切りを定めたのではなく、ユダが自分の自由意思で裏切った。

(2)ユダの裏切りは、必ずしも十字架でのイエスさまの御業には、必要不可欠というわけではないはず。
なんども悔い改めを促しているから、神さまは、ユダが裏切ることを望んではおられなかった。ユダが裏切らなければ、イエスさまは、別の方法で十字架についたはず。

(3)時間軸が違う
神さまは、ユダが最後まで悔い改めないことを知っていたとしても、愛をもって接してくださった。悔い改めない結果をしっているはずなのに、なぜ、そのように接してくださるのか?疑問に感じる
が、神さまの見てる時間軸が我々とは違うこともあり、神さまは、因果律に支配されない。
最後まで私たちの悔い改めを促してくださっているようにうつる。神さまは、何度でも、悔い改めのチャンスを与えてくださるように見える。そして、神さまは、ユダが悔い改めることを願っていたし、私たちが悔い改めることも喜んでくれている。

そんなように思いましたが、いろいろな解釈がありそうです。俺のような新米クリスチャンには、難しい問題だと思いました。

ノートルダム大聖堂の火災

ノートルダム大聖堂で大きな火災が起きたとのこと。

私が集う教会の会堂で火災が発生したらと考えると、フランスのカソリックの信徒の方々一人一人の悲しみは、本当に大きいだろうと思います。

なるべく早く鎮火できますようにお祈りします。

マクロン仏大統領は、「フランスの全国民と同じように、自分たちの一部が燃えているこの光景は悲しい」と述べられたようです。

この受難週を迎えているなか、自分たちの一部が燃えているとまで形容される光景を見ると、ご自分の身体、命を捧げてくださったイエスさまが、槍でわき腹を突き通された御姿が重なります。

消防士の方が重傷を負われたとのこと、早く治りますように、主なる神さまの御名によって祈ります。

que la gloire du seigneur subsiste à jamais accords
主の栄光は、永遠の契約に耐えます(ヘブル8:13参照)。

どのような立派なものも壊れるときはありますが、主なる神さまは、永遠なるお方です。

神さまが、大聖堂を再建させてくださると信じます。フランスの方々に神さまの祝福がありますように。

今日もイースター早天祈祷会に行って来ました!

今日も朝6時半に教会にいって、神召キリスト教会のイースター早天祈祷会に参加しました。

日替わりで、その日のお話をする人が変わるのだけど、今日は、高橋正人牧師でした。

聖書箇所は、マルコの福音書11章20~25節です。
①『朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」』(マルコ11:20,21)

②いろいろ物議をかもす箇所ではある。ただ、食べ物の恨みで、実のならないイチジクが枯れたのではない。

③サマリヤの女の聖書箇所でイエスさまは、食物の話をしたことがある。
『イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
エスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』(ヨハネ福音書4:32~34)

④霊的な食べ物、霊的な実の話

⑤ いちじくの木は、イスラエルのこと。

ヨハネ15:16
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」
→イエスさまは、イスラエルが実を結ぶために遣わされた。

⑦イエスさまが3年の伝道活動をし、十字架にかかるまで残り一週間もないという時になっても、いちじく(イスラエル)は、信仰による実を結ばない。

⑧むしろ、宮の中は葉ばかりが茂っているいちじくの木の様に、祈りや信仰ではなく、神殿商売による人々の賑やかな声。
→イエスさまは、戒められた(宮きよめ)

⑨また、いちじくのたとえとして、聖書は、こうもいわれている。
『イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」』
→3年間は、イエスさまが伝道された活動期間に一致
→このままならば、神の民はこのいちじくの木のように根こそぎ枯らされてしまう。

イスラエルにしても、私たちにしても、本来であれば、枯らされてしまうことを示す意味で、いちじくの木が枯らされたが、イエスさまは、私たちが枯らされないために、自らが十字架にかかってくださった!

⑪イエスさまが十字架にかかってくださったのは、私たちが主イエスさまを信じる信仰によって実を結び、その実が残るため。
→そのためにも、まずイエスさまを信じる信仰が大切。信仰が与えられるように祈っていく。

こんな感じのメッセージでした。
メッセージによいも悪いもないとはいえ、やっぱり、牧師がとりついでくださるメッセージは、素晴らしいですね。わかりやすいし、みことばによって、一つ一つの言葉がサポートされている。昨日、自分が講壇にたって話をする奉仕(しかも似たような聖書箇所)をさせていただいたからこそ、今日の牧師によるメッセージを聞いて、牧師がいてくださる恵みを知りますね。そして、より深く神さまの言葉を知ることができます。神さまに感謝します。

早天祈祷会に参加しました。

今日は、イースター早天祈祷会に行きました。
昨日の日曜日から今週末の土曜まで、
朝6時半に、有志で教会に集まってみんなで祈るわけです。

早天祈祷に加えて、今年から、牧師先生からイースターの一週間、メッセージメールが届いたり、教会に集まれない人達も多いので、連鎖祈祷(それぞれの人に、日時を割り振って、自宅とかで祈り、祈りを繋げていく)ってのもやってます。

そして、本日の早天祈祷での奨励(司会、お話)は、私が担当しました(新米クリスチャンなのに、やっていいのかな?って思うのだけど、喜んで奉仕しました)。

聖書箇所は、マルコの福音書11:12~14です。
①遠くから見ると、イチジクの木に、葉がたくさん茂って立派に見えた。しかし、近づいてみると、実がなっていなかった。見かけ倒しに終わった。

②イチジクは、当時のイスラエルの人々を指しているともいわれる。神さまを伝える国として最初に選ばれたのに、イエスさまを救い主として信じることができず、信仰の実をならすことができなかった。

③私たちも、遠くからみると立派に見えるような、見かけ倒しに終わるのではなく、イエスさまの信仰の実、御霊の実を実らせたい。

④そのためには、人間の努力には限界がある。
聖霊の飢え渇きによって、聖霊に燃やされて、聖霊によって進んでいきたい。

こんな感じで話をしました。

そのあとで、出勤したので、いつもより早く職場につきました。

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棕櫚(しゅろ)の日曜日 神召キリスト教会 2019年4月14日主日礼拝

毎週、日曜日(主日ともいいます)、神召キリスト教会の礼拝に参加しています。
いよいよ、来週の日曜日がイースターです!
今日も、北区滝野川にある神召キリスト教会の礼拝に参加しました。

説教題「救いの王が来られる」
ゼカリヤ書9章:9ー12節、ヨハネ福音書12章12ー19節でした。

(1)王の王であるイエスさまに対して、自分の都合がよいイメージを当てはめない。

(2)王よりも自分を強くしない。

(3)真に神さまと出逢う 必要があるので、とりなしの祈りをしていく。

(4)ぬるいクリスチャンではなく熱く燃やされるためには、自分の努力ではなく、聖霊の満たしをうけることが必要。聖霊への飢え渇きが大切。

これらのことを学びました。
恵みに満ちた礼拝でした。


①本日は、イースターの前週の日曜日
→棕櫚(しゅろ)の日曜日と呼ばれる。

②しゅろは、最近の聖書の翻訳では、なつめ椰子となっている。

③群衆は、しゅろ(なつめ椰子)の枝を持って、イエスさまのエルサレム入城を歓迎(ヨハネ福音書12:13)。
→なつめ椰子は、イスラエルを代表する植物
日本でいえば、桜の枝を持って歓迎みたいなもの。

④イエスさまは、十字架にかかる決心。
→ろばの子に乗ってエルサレムに入城。

⑤400年も前のゼカリヤ書によって預言されていた。
→「あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和は者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)。
→創世記49:11でも預言。

⑥誰もがイエスさまを歓迎したのに、数日経つと、あの者を十字架につけろ!という。
→なにがおこっていたか?

⑦イエスさまが入城した目的と、人々の期待内容が違っていた。

⑧人々には、イスラエルの王といえば、偉大なるダビデ王のようなイメージ。
→マカベヤ戦争で勝利をもたらしたマカベヤのような軍事的に解放してくれる王を期待。
→そのイメージをイエスさまに押し付けた。

⑨イエスさまの奇跡(ラザロが生き返った等)を見て信じた人
→イエスさまは、奇跡を見て信じた人々のことをあまり信用されていなかった(ヨハネ福音書2:24)。
→とはいえ、イエスさまは、群衆が喜んで迎えることを受けてくださった。

⑩人々の霊的な目が閉じられていた(ヨハネ福音書12:16)。
→ゼカリヤ書は、王が軍馬や戦車ではなく、王には、およそ似合わない、ろばの子にのって来て、平和がもたらさせる、不思議な預言が記載されている。イエスさまは、自分が軍事力によって民を解放する王ではないことのヒントをゼカリヤ書になぞらえて与えているともいえる。
→よく知っていたはずの旧約聖書 ゼカリヤ書に、かかれているのに、それがイエスさまによって成就されたことに、民は気づいていなかった。
→後に、聖霊バプテスマを受けてはじめて、イエスさまが、ゼカリヤの預言を成就されたことに気づいた。

⑪人の思い、計画ではなく、霊的な平和がなされた。

⑫一見すると罪人の一人として惨めに十字架で死ぬ。
→真の救い。神さまの愚かに見える十字架での死による、あがない
→私たちを救う唯一の道。

⑬人々は、自分たちの思う方法にこだわる。
→失望観
→神さまは、人が思いもしない方法で救ってくださる。

⑭神さまを自分の思う都合のよい王さまのイメージに当てはめない。

⑮自分を王にしない。

⑯王さまの命令に素直にしたがう。
→自分を王より強くしない。

⑰聖書のみことば
自分に都合のよい、自分を励まして、強くしてくれるみことばは喜んで聞き、都合の悪いみことばは、避けるのは、よくない。
→神さまの言葉
→王の王による言葉として聞き従う。
→イエスさまをもう一度十字架につけるようにしてはいけない。

⑱武力ではなく、尊い十字架による、あがないによって、私たちを救いだしてくれた。
→それゆえ、私たちは、神さまの前に出ていくことさえできる。

⑲神さまと真に出逢う
→それによって、はじめてわかる、
神さまと真の意味で出会わなければ、
礼拝、献金、奉仕、、などの意味も完全にはわからない。
→わかるのは、イエスさまを神体験して、真にしったとき。
→それゆえ、私たちは、だれか救われてほしい人がいるとき、
神さまが触れてください。
目を開かせてください、と、とりなして祈る。

⑳すでに救われているクリスチャン
50%の力でやっているから良いとか、ぬるいことをいってはダメ。
→神さまのために自分をささげさせていただく。
→自分の努力や思いでは、どうにかできない。

弟子たちは、聖霊バプテスマを受けて、十字架は、自分のためだったことに気づいた!!
それゆえ、命をもかけて福音伝道できた。

(21)聖霊に対する飢え渇きが大切
聖霊に満たされることを切望し、求める。
→目を開かせてもらう。
→神さまさえいて下さればよいと思えるように変えられる。
聖霊さまに燃やされる。→熱くなる。
人の力では困難なこと。聖霊によりたのんでいく。

恵みに満ちた礼拝でした。
教会は、クリスチャンだけのものではないらしいので、どなたでも、教会に行ってみてよいのでは?と思います。
寺に行ったからといって檀家になれといわれないのと同じで、教会の礼拝に参加しても、教会員になれとは言われないから、怖くないよ!

【神召キリスト教会へのアクセス】

①JR板橋駅下車。

②ホームから階段(エスカレーターでもOK)を降りて、改札を出て、右側の出口(東口 滝野川方面)を出る。

③駅前のロータリーの左前に、マクドナルドがあるので、マクドナルドの信号を、喫茶店「しゃとう」側へ渡って、しゃとうの前をすぐ左。

④中華料理屋「同心房」、とんかつ松のや、サイゼリヤを通り越して、突き当たりの信号を渡って右折。セブンイレブンがある。

⑥左折して、セブンイレブンと、茶色の三階建ての建物との間の通り(きつねづか通り)に入って、20メートルです。
駅から4~5分です。