イスカリオテ ユダ
今日も、イースター早天祈祷会に参加しました。
聖書箇所は、マタイの福音書26章でした。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
いろいろな疑問が浮かぶところです。今日の早天祈祷会に出て、祈祷会のお話をヒントに、新米クリスチャンの私なりに考えてみました。
疑問点
①12使徒の一人であるイスカリオテ・ユダが裏切らなかったら、イエスさまは十字架にかかっていないのだから、ユダは重要な役割を果たしたのでは?
②イエスさまは、12使徒の一人であるイスカリオテ・ユダが自分を裏切ってしまうことを予めわかっていた。それにもかかわらず、あえてユダを任命したのはなぜか。
③ヨハネの福音書13章26節から28節で、
イエスさまは、裏切るのはイスカリオテ・ユダだと示しているように思えるが、他の使徒達は、それに気づいていないのか?
④ヨハネの福音書13章でイエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われたが、この意味は。
解析
①について、ユダの裏切りがなくても、十字架によるあがないの業は神が定められたご計画によるものだから、なんらかの方法で実現される。
②については、①の問題でユダの裏切りがなくてもイエスさまの十字架の贖罪の死は可能だったとすると、ユダを選んだ理由は、何なのか?という疑問につながる。
ただ、裏切りは、あくまでイスカリオテ・ユダの自由意思によること。神さまに預言されていても、ユダの罪が軽くなるわけではない。イエスさまは、何度もイスカリオテ・ユダに対して悔い改めの機会を促してした。最後まで愛をもって接してくださった。
この問題の根底には、神が見ている時間の概念と、人間が見ている時間の概念が違うということがある。神さまにあっては、一日は千年のごとく、千年は一日のごとく見える。人間は、過去と現在の概念が別個に見えているのに対して、神さまは、過去も現在も未来も同時に見えている。神さまには、原因も結果も同時に見える。因果律に制限されない。
③については、イエスさまの隣に座っていたヨハネには、裏切りものがイスカリオテ・ユダだとわかった可能性はあったが、ぺテロのような他の使徒達にはわからなかった。ぺテロが知ったら、その場で刀でイスカリオテ・ユダに切りつけたかもしれない。
④あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい、というイエスさまの言葉は、罪を則す言葉ではなく、この最後の最後までユダの悔い改めを促してる言葉なのだと思う。そして、あくまで私たちの自由意思に基づく悔い改めを尊重してくださっている。
まとめ
新米クリスチャンなりにまとめてみました。
(1) 自由意思が尊重されている。
結局、イスカリオテ・ユダは、自由意思で選択し、決断してイエスさまを裏切った。神さまは、そこまでして私たちの自由意思を重視し、けっして強制はしない。
神さまは、ユダの裏切りを前もって予知しておられた。けれども、神 さまがユダの裏切りを定めたのではなく、ユダが自分の自由意思で裏切った。
(2)ユダの裏切りは、必ずしも十字架でのイエスさまの御業には、必要不可欠というわけではないはず。
なんども悔い改めを促しているから、神さまは、ユダが裏切ることを望んではおられなかった。ユダが裏切らなければ、イエスさまは、別の方法で十字架についたはず。
(3)時間軸が違う
神さまは、ユダが最後まで悔い改めないことを知っていたとしても、愛をもって接してくださった。悔い改めない結果をしっているはずなのに、なぜ、そのように接してくださるのか?疑問に感じる
が、神さまの見てる時間軸が我々とは違うこともあり、神さまは、因果律に支配されない。
最後まで私たちの悔い改めを促してくださっているようにうつる。神さまは、何度でも、悔い改めのチャンスを与えてくださるように見える。そして、神さまは、ユダが悔い改めることを願っていたし、私たちが悔い改めることも喜んでくれている。
そんなように思いましたが、いろいろな解釈がありそうです。俺のような新米クリスチャンには、難しい問題だと思いました。