新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

で、教会ってどうよ?

<俺っていう奴は>
私という人間は、少なくとも、教会に通う前は、
女性にモテたい欲と、
相手に尊敬されたい名誉欲と、
巨万の富を手に入れたい金銭欲と、でできていた。

教会に通っている今でも、そのような傾向はある。
かなり、現実主義者で、利己主義者である。
また、理科系の大学院を出ているのでもわかるように
本来は、かなりの科学信奉者だ。

普通に考えると、
神さまを信じるような人間ではないとおもう。
むしろ、
対極にいるといわれても仕方がない人間だとおもう。

教会に通いだして2年、洗礼を受けてから1年になるが、
こんな現実主義、利己主義者の俺が毎週欠かさずに
教会に通っているのをみて、
家族は、不思議に思っているようだ。

弟は、俺をみて、「兄貴が教会に通っているのは、
教会に可愛い女がいて、それを目当てに通っているに違いない」
とまで言っている。

弟からみると、兄貴は、得にもならないことをやる人間ではないので、
教会には、なんか得になることがあるに違いないと思っているのだろう。

でも、現実は違うんだ。
確かに、教会には、可愛い、きれいな女性達もたくさんいる。
でも、それを目当てに教会にいったことはないんだなあ。

<教会に興味をもったきっかけ>
私が教会に興味をもったのは、前の職場での出来事がきっかけだ。

その職場に、クリスチャンである同僚がいた。
そして、その同僚のお母さんも熱心に教会に通うクリスチャンだったそうだ。
その同僚のお母さんは、教会に通う途中の道すがら交通事故に遭われて亡くなられた。
葬儀は教会で行われて、
同僚の母親の葬儀だということで、私も葬儀に出席した。

私は、「神さまがいるのなら、なんで教会に行く途中で事故に遭わないように神さまは守ってくれなかったのだろう。
きっと、教会の人達も、同じ疑問を持って、
神さまはいないのではないかと不信感を持っているだろう。
悲しい葬儀になあるなあ」
と内心思いながら、教会の葬儀にむかった。

でも、教会についてみると、まったく違った。

ご家族をはじめ、教会の人達は、悲しみの中にあっても、
神さまを褒めたたえ、
神さまを信じる者が永遠の命を受けていることに感謝していた。
そこには、希望があって、力強さがあった。

クリスチャンってのは大したものだなとその時思った。
それを契機に教会に通いだしたのなら、良くできた話なのだけど、
興味はもっても、実際に教会にいってみるまでには、数年を要した。

なんで数年もかかったのか。
一つには、教会というところは、
敬虔な人じゃないと行っては駄目なんではないかという誤解があった。
また、俺も一般的な日本人と同様に、宗教アレルギーというか、
カルトとかに取り込まれるのでは(笑)という怖さがあった。

<教会に行ってみると>
でも、教会にいってみると、神さまは、罪人である俺のままで、
俺を愛してくださるらしい、ということがわかった。

それと、教会に通っている人は、ぜんぜん普通の人達だった(笑)。
カルトに洗脳されてるような人はいない。
普通に高校生だったり、普通にOLだったり、普通に会社員だったり、むしろ優しい人が多い。

これは、当たり前のことのようだけど、重要だ。
親がクリスチャンだったら、
自分の親が普通の人間だ(親は、イカれた人間でない)ってことはわかるわけだし、
親に連れられて日曜学校なんかで教会にいく機会もあるから、
「教会ってとこは、別に普通の人達が来るところだな」ってことを自然にわかるけど、
俺らみたいにクリスチャンの知り合いもいない者にとっては、
教会なるところは、なんか宗教にかぶれたイカれた連中が
来るところなんでは?って怖れを持つわけだ。

でも、俺が行ってみたところ、宗教にかぶれたイカれた連中はいないし、いたって普通だ。

また、礼拝では、聖書を開きながら、牧師のメッセージを聞いたのだけど、
素人なので、最初のうちは、聖書の該当頁を見つけられないわけだ。
そんなときでも、なんか親切にも、隣に人が寄ってきてくれて、
頁を開いてくれたり、とても優しい。
話をしてみても、ほんとにいい感じの人だ。
こういう人が通ってるところなら、教会なるところは、危ないところではないなって確信した。

牧師も伝道師も、優しくて、笑顔が素敵だ。
テレビで見るカルトの不自然な作り笑いではない。

別にそんなに勧誘もされないし、
「来週もお待ちしてます」って爽やかに言われたくらいだ。
怖くない。

なんだ、教会ってところは、いってみると、怖くないなって思った。
あと、別に敬虔とはいえない俺みたいな者でも、
そのまま通っていいんだ。と拍子抜けした。

牧師や伝道師の爽やかな笑顔が脳裏をかすめ、
「そういえば『来週もお待ちしてます』っていってたなあ」
って思って、次の週もいってみた。

そんな調子で、しばらく通っていると、
神さまの愛ってのに気付かされる。

俺が自分で神さまの前に来たような気でいたけど、
神さまが招いてくださったんだなって思った。

そして、その後もずっと通っているわけだ。

クリスチャンになってみると、こんな俺でも、
毎日新たにされて、成長できていると思う。

不品行な者でも、
むしろ神さまを信じて救われれば、神さまがそばにいてくれて、
神さまが私と一緒にいてくれると、(一緒にいる夫婦が似てくるのと同じ原理によって)
徐々に、神さまに似たものに変えられていくだけなんだ。

<教会ってどうよ?>
で、教会ってどうよ?といわれると、
俺にとって、なくてはならないものだと思う。

誰かが俺に「教会にいかず、聖書も読まずにいられたら、3億円を挙げる」
っていったとしても、
うーん、「空気を吸わずにいたら、3億円を挙げる」
って質問と同じように思える。
3億円を貰うことはできない。No thank youだ。
別に恰好つけるわけではなく、そうなのだ。