新米クリスチャンのGod is Loveの日記-JR板橋駅そば神召キリスト教会に集ってます

職業は弁理士です。技術系の大学院を出てます。ひょんなことから、クリスチャンになった新米クリスチャンです。神召キリスト教会に通ってます。

初詣っていっても、元旦礼拝だけど

私の通う教会は、1月1日に元旦礼拝を捧げています。

ということで、新年の始めにあたり、教会にいってきました。

(1)正月の「正」は、「一」に「止」と書く。「一」という「始まりであり、原点」に、止まる(帰る)という意味がある。
2018年も、さまざまな過ち、失敗はあったが、原点に戻って軌道修正をはかるときとしたい。

(2)クリスチャンにとって原点とは、イエスさまを信じ、罪許され、イエスさまと歩み始めたとき。

(3)新年といっても、周囲が変化するわけではない。ただし、西暦等でいえば、12ヶ月で年が変わる。これも、神さまが定めてくださった。

(4)1日が経ち、1週間が経ち、1ヶ月が経ち、1年が経ちというように、時が進んでいくように定められているのも、我々が、いつまでも同じところに、いるのではなく、つねに、新しい体験をできるように神さまがされているといえる。

(5)大掃除でも、使わなくなったものを、思いきって捨てることで、新しいものを入れるスペースを作ることができる。


(6)信仰についても、神さまは、新しいことを与えてくださる。

(7)再臨(イエスさまが再び来られるとき)、すべてのものが揺すぶられる。
揺すぶられても、残るものは、何か?
→イエスさまは、変わらず残る。
一方で、王、元首も、変わる。
財産、資産も、変わる。
教育も、詰め込み教育ゆとり教育、というように、変化していく。

(8 )戦争の話を聞く。愛が、冷めていく。星が落ちる。終末の傾向。
→イエスさまか再臨されるのに備えをして、おじまどわない。

(9)子供のように考えるのを止める。
→純粋でなくなるというのではなく、
クリスチャンとして、新しい日、週、月、年が進むにしたがって成長するべきということ。

(10)年齢を重ねることで、成熟される面がある。
聖書では、年齢を重ねた方々が、よく用いられる。ノア(600歳)、アブラハム(76歳)、モーセ(80歳)、ザカリア、エリザベス、アンナなど。
年齢を重ねることで、もっと深く神さまを知ることができる。

(11)使徒パウロも、宣教を開始するまでに数年間の期間をもった。すぐに宣教しはじめたわけではない。
エスさまも、布教を30歳になって始められた。

年齢を重ねなければわからないことがある。

(12)ただ、我々のタラント(タレント、才能)も、固執してはダメ。ぼんやりした曇った鏡で見ているような状態でしかない。我々のタラントも一部分でしかない。完全なものではない。

コリントの教会では、これはあの人にはできない奉仕。自分はできる。みたいに、自慢合戦となってしまい、タラントがうまく用いられなかった。

(13)タラントが完全なものではないといっても、自分の努力でタラントが完全なものとなるように、磨いていくものでもない。

(14)懐中電灯と同じ。懐中電灯は、夜に使うが、昼間は、あまり使わない、個々のタラントも、ずっと使われるものでない。

人に与えられているタラントや奉仕も、完全ではないので、奉仕も、時期が来たら自分ではなく、別の方々にやっていただくことも必要。

(15)神さまは、働き手を成長させてくださっている。イエスさまご自身も、奉仕を独り占めしなかった。弟子たちが用いられて、布教された。

そういう意味では、いかなるタラントも、完全ではないが、神さまの愛は、止まらない。

(16 )愛とは、私たちを知ってくださっていること。
私たちが衰えて奉仕ができなくなってきても、神さまは、私たちの状況を知っていてくださる。深いところまで知っていて、守ってくださる。


こんな感じのメッセージでした。

我々は、年齢を、重ねていくことで、神さまを深く知っていくことができるので、年齢を重ねていくことが必要。神さまは、我々の成長を願われている。

ただ、自分ばかりでなく、他の方々も成長する。我々が与えられている賜物や奉仕も、独り占めしてはダメ。常に、変化していく。

年齢によって奉仕ができなくなった場合でも、神さまは、私たちを知っていてくださる。神さまが、一緒にいてくださることを信じ、安心して歩んでいくことができる。
こんなように感じました。